関東大震災のこと
2011年 05月 03日
これは大正12年(1923年)の関東大震災のときの記録誌です。雨漏りがひどいので、あちこちの棚のものを避難させていて偶然みつけました。
当時は「大正大震災」と言っていたのでしょうか。
時事新報の付録(B5版64P)として同年12月に発行されています。
ちなみに、ウィキペディアによると「時事新報」は福沢諭吉が創刊した新聞なのだそうです。
9月1日午前11時58分、まさにお昼になろうという時。大火事になったのも当然といえば当然でしょう。
活字が読みにくいので、冒頭から一部解読(?)翻訳(?)してみます。
「土の怒り、火の狂い、自然の凶暴に躙られた大東京及び横濱、その他関東地方の震害は實に有史以来の大慘事であった。九月一日午前十一時五十八分その刹那の凄まじき大地の震動と共に、或は前後に或は上下に地と人とを搖るがして止まず、さしもの大厦高層も一瞬にして潰滅し、大地は裂けて水を噴き、人は屋梁に壓されて傷き死し、その混亂せる光景よく筆舌の盡すところでない。」
旧漢字が多用されていて変換がたいへんでしたが、当時の文体が偲ばれます。
この記録では、東京市郡の死者が71,615名、横濱市が死者23,440人、この2市だけで10万人の死者が出たことになります。
特にひどかった被服廠での惨事で、
生地獄・断末魔などの活字がみえます。そのときの様子が生々しく描写されていて、かたや火災、かたや大津波と、その形態は火と水との違いはあれど被害の甚大さがいまさらながら、胸に迫ってきます。
「本所は若宮町と森下町から先づ火の手をあげた。全區忽ち火の海、このときに逃げ惑ふ避難民の頭にちらと映ったのは被服廠跡の廣場であった。火の下を雪崩を打った老幼男女は先を争って廣場に殺到した。而も最初の程とて何れも荷物を運んでくるので混亂物凄く、さしも二萬坪余の廣場も、午後三時頃には幾萬とも知れぬ男女の群れで、身動きならぬ程に詰まってしまった。然るに火の手はいよいよ劇しく、午後四時頃には廣場内の建物に火が移ったと見た非難民は、狼狽と絶望の修羅場を現出した。此時であった。何たる災厄ぞ突如凄まじい旋風が巻き起って、火焰は猛然人と物を一甜めに甜め盡さうとした。今や生地獄の最中に、あらん限りの力を出して死の境を脱しやうと互に爭ふ人々は、右に遁れてよいものか、左に走せてよいものか方向も分からなかった。」
当時、我が家では庭の灯篭がひとつだけ倒れたそうです。つくばからも東京の火の明かりが見えたり、火の粉が飛んできたりしたという話が伝わっています。
いずれにしても災害は忘れた頃にやってくる、今から90年近く前のことは決してひとごとではなかったわけです。
当時は「大正大震災」と言っていたのでしょうか。
時事新報の付録(B5版64P)として同年12月に発行されています。
ちなみに、ウィキペディアによると「時事新報」は福沢諭吉が創刊した新聞なのだそうです。
9月1日午前11時58分、まさにお昼になろうという時。大火事になったのも当然といえば当然でしょう。
活字が読みにくいので、冒頭から一部解読(?)翻訳(?)してみます。
「土の怒り、火の狂い、自然の凶暴に躙られた大東京及び横濱、その他関東地方の震害は實に有史以来の大慘事であった。九月一日午前十一時五十八分その刹那の凄まじき大地の震動と共に、或は前後に或は上下に地と人とを搖るがして止まず、さしもの大厦高層も一瞬にして潰滅し、大地は裂けて水を噴き、人は屋梁に壓されて傷き死し、その混亂せる光景よく筆舌の盡すところでない。」
旧漢字が多用されていて変換がたいへんでしたが、当時の文体が偲ばれます。
この記録では、東京市郡の死者が71,615名、横濱市が死者23,440人、この2市だけで10万人の死者が出たことになります。
特にひどかった被服廠での惨事で、
生地獄・断末魔などの活字がみえます。そのときの様子が生々しく描写されていて、かたや火災、かたや大津波と、その形態は火と水との違いはあれど被害の甚大さがいまさらながら、胸に迫ってきます。
「本所は若宮町と森下町から先づ火の手をあげた。全區忽ち火の海、このときに逃げ惑ふ避難民の頭にちらと映ったのは被服廠跡の廣場であった。火の下を雪崩を打った老幼男女は先を争って廣場に殺到した。而も最初の程とて何れも荷物を運んでくるので混亂物凄く、さしも二萬坪余の廣場も、午後三時頃には幾萬とも知れぬ男女の群れで、身動きならぬ程に詰まってしまった。然るに火の手はいよいよ劇しく、午後四時頃には廣場内の建物に火が移ったと見た非難民は、狼狽と絶望の修羅場を現出した。此時であった。何たる災厄ぞ突如凄まじい旋風が巻き起って、火焰は猛然人と物を一甜めに甜め盡さうとした。今や生地獄の最中に、あらん限りの力を出して死の境を脱しやうと互に爭ふ人々は、右に遁れてよいものか、左に走せてよいものか方向も分からなかった。」
当時、我が家では庭の灯篭がひとつだけ倒れたそうです。つくばからも東京の火の明かりが見えたり、火の粉が飛んできたりしたという話が伝わっています。
いずれにしても災害は忘れた頃にやってくる、今から90年近く前のことは決してひとごとではなかったわけです。
by hojo4027
| 2011-05-03 18:40
| 東日本大震災